「インド万華鏡」の旅へ

インドの風景、遺跡、人々、神々、ヨーガ、伝統武術

カルカッタの路上生活

私は95年からインド通いを始めた鉄板のインド・フリークだが、当時格安チケット使ってインドに行く場合、バンコク経由でカルカッタコルカタ)に入るというのが王道だった。

あの頃はパキスタン航空とかエジプト航空とか名前からして怪しげな(笑)チケットでバンコクまで行って、カオサン辺りでチケットを買ってカルカッタまで飛ぶのが定番だったのだ。

私が初めてインドに行った時も、そんな訳でカルカッタに最初の一歩を踏み出したのだった。今から20年以上前のカルカッタは未だ路上生活者が町の至る所にひしめき、街角の井戸や消火栓の水を浴びて暮らしていた。

現代日本の都市ではほとんど見られないが、路上で生活しているのはホームレスだけではなく、あらゆる商売人が路上に店を構え、客たちと丁々発止のやり取りをしていた。

それは見ているだけで、何か人間の持つ根源的な生命力や逞しさを感じさせるもので、「こいつら、生きているなー!」と感じずにはいられなかった。

居並ぶ路上の店の中には、何を売っているのかも良く分からない、誰がこんなものを買うのだろうか、というような品揃えもあったりして、異世界に迷い込んだ気分になったものだ。

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インドの商店街は商品の種類によってギルド的に一か所に固まっている事が多い。路上の場合も一応はそれを踏襲しているのだがやはりカオス度が高く、何の脈絡もなく野菜売りの隣にアクセサリー売りが商品を並べていて、なぜかそのアクセサリー売りが馬の蹄鉄を売っていたりして、路上を歩いているだけで、そこらのアミューズメント・パークに入るよりよっぽど楽しめたものだ。

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しかし、野菜売りならまだしも、あのインドの気候の下で、鮮魚までも販売しているのには恐れ入った。もちろん冷蔵設備などはあるはずもない。露店で路上にシートを敷いて、その上で生魚を並べているのだ。

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一応日よけの傘などで日陰を作ってはいるのだが、ハエもちらほらとあるいは時に大量に飛び交う中、路上で売られる魚たちは、日本人の感覚ではとても手が出せそうにないものだった。

けれどカルカッタで売られている魚は地場の川魚が多く、またガンジス水系の河口部に近いので海の魚も遠くから来たものではない。これは見た目の第一印象よりもよほど新鮮で美味いのだという事は、しばらく滞在するうちに分かってきた。

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路上商人の中には、花飾りや特定のフルーツなど、たった一種類の商品だけを売っている人たちもいて、午前中だけ、あるいは一日中路上に座ってその一点ものを商っている。これで生計が成り立つのだろうか、と不思議になるが、日本のさお竹屋の経済学と一緒で、多分それなりに儲かっているのだろう。

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彼らは基本的に小便にでも行くとき以外、ほとんどその場所から動かない。新聞や水、そして弁当も携えて、その路上の一角があたかも彼の生活空間であるかのように時を過ごし、時々来る客に商品を売る。

中には靴修理屋や自転車屋、あるいは包丁研ぎ屋など作業系の店もあって、熟練の手さばきを見せている。その手間賃はたいへん安く、これもまた生計が成り立つのかと他人事ながら心配になるのだが、な~に、インド人は逞しいから何とかなっているのだろう。

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私は以前、街中で靴修理を営んでいるおじさんが、ほぼ一日中結跏趺坐(けっかふざ)で座っているのを見たことがある。立つときも別に痛そうなそぶりも見せずに、日本人が長時間正座した直後のあの醜態に比べれば、ほとんど安楽椅子からひょいと立ち上がったような感じだった。

古代インドの瞑想の伝統においては、この結跏趺坐というものが最も聖なる坐相として尊ばれたのだが、その基本は長時間続けられる「安楽かつ安定した坐法」であったという。

どうやら我々日本人とインド人とでは身体の造りがかなり違う様で、日本に入ってきた禅宗が苦行の様相を見せているのとは対照的に、インド人にとってはこの結跏趺坐(パドマーサナ)こそが、最も安楽な坐り方だったという事なのだ。

学生時代に参禅に親しんだ私は、苦行を否定した釈尊ブッダが何故このような苦痛に満ちた結跏趺坐で坐禅していたのかと昔から不思議だったのだが、実際にインドに行ってみて、見事にその疑問は氷解した。

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インドの路上商売には他にも様々な形態がある。固定した一か所に居座り続けるのではなく、リヤカーや自転車、天秤棒や籠などで移動しながら売り歩くスタイルだ。

ある程度場所が決まっている場合もあれば、何か所かを時間によって遊動するタイプもあるようだが、見た感じはこちらの方が規模と言い実入りは良さそうな気がする。

売り物はヤシの実ジュースとか砂糖キビジュースなど、酷熱の大地インドでは必須とも言える清涼飲料系が旅人にとってもありがたい。

私はヤシの実ジュースはあまり好みではないのだが、砂糖キビジュースは大好物で、その姿を見かけるとついついお代わりしてしまうほどだ。

そのはんなりとした甘さと独特の香りによって、太陽に炙られて疲弊しきった身体がみるみる癒され活力を取り戻す様子が実感できて、「う~ん、美味い!」とつい日本語でひとりごちてしまう。

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カルカッタの路上商売について紹介してきたが、カルカッタで路上、と言えば、人力車(リクシャ)を忘れてはいけないだろう。近年の経済発展にともなう交通量の増加によって、年々肩身の狭い立場に追いやられてはいるが、まだまだ現役で頑張っている。

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聞けば免許制になっていて、もはや新規免許の発行は中止になっているのだと言う。インドの商売は基本的に世襲になっている事が多く、人力車の場合も、親から子へと免許が継承される限りにおいて、存続が許されているらしい。

私は値段交渉が面倒なのでめったに乗りはしないが、やはり、彼らにはいつまでも現役でカルカッタの町を走り回って欲しいものだと思う。

しかし傍から見れば風情のある光景だが彼らの生計はかなり厳しく、一日のほとんどを路上で過ごし、寝るのもまた路上と言う人も少なくないらしい。

日本の観光地で見られるリバイバルな人力車と違って、その料金体系はローカルでは相当低く抑えられているのだろう。逆に言えば、安いからこそ生き延びられている、という側面もあるので、なかなかに難しい。

リクシャを含め、今回紹介した路上商売人の多くが、現在進行形の高度成長からは取り残されたような、古いタイプの人間に属するのだろう。

このような光景がなくなってしまうのは観光客にとっては寂しいことだが、しかしインド人にとっては、それがなくなってしまうだろう未来の方が、よほど幸せなのかもしれない。

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インドでは実店舗をちゃんと構えている場合でも、日本人の感覚で言うと半路上と言っていい様な、店と路上の区別があいまいな営業形態が結構見られる。

チャイ屋やローカルなファーストフード店によくあるパターンなのだが、ビルの外壁のわずかな窪みのようなスペースに機材一式が収納されていて、開店時にはその周囲の路上がインスタントな店舗へと変身する。

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それよりもよほどまともな店を構えていても、小規模な小売店の場合はドアがある訳でもなく、開店時はやはり半路上にまで商品を展開するので、店と路上の「けじめ」というものが日本の感覚で言うとほとんどないに等しく、通りがかりにちょっと声をかければすぐにリアクションが返ってくる。

インドでは子供が店番をするというのが日常的に行われているので、そんなガキんちょに捕まってしまったら、楽しいようなウザいような充実したひと時を過ごせるだろう。

逆にこのようなオープンな街の造りが、旅人をして何か郷愁を感じさせてしまうような、そんなインドの独特な魅力ともなっているのかも知れない。

今回は第一回という事もあって、私にとってインド初上陸の地カルカッタを取り上げたが、これから本ブログでは、インド滞在歴「観光ビザだけ」で50ヶ月、の間(主に2005~2011年、2018~)に撮りためた様々な写真やビデオと共に、未だマイナーなインド武術の紹介も交えながら、折に触れてランダムに投稿していきたいと思う。

その過程で、タイトル通りに「夢幻の万華鏡世界」としてのインドの魅力を、私なりの視点で描いていけたらと思う。

 

本サイトは、サンガム印度武術研究所の公式ブログです



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